
自己紹介
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名前 山本 純士
(やまもと あつし)
出身地 東京都狛江(こまえ)市
(小田急線が通る、
多摩川沿いの街)
趣味
歩きながら
花・実・葉っぱなどを観察し、
おもしろそうな題材を見つけ次第、
撮影してサイトに掲載すること。
心掛け
「心の充足点レベルを
『低』の状態に保つ」
(= 何にでも
満足できるようにする)
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<趣味変遷>
1981~84年 【自転車旅行】
(1982.8.29 北海道 幸福駅)
サイクリング用の自転車に
テント、寝袋などを積んで、
海岸沿いの道、山道、町の中など、
47都道府県のいろんなところを
走りました。
駅で自転車を折りたたんで
袋に入れて電車に乗り、
降りた駅で組み立てて走り出す、
というスタイルです。
↓
駅での自転車組み立ては
こういうかんじ
(1983.9.17 北海道 札幌駅)
前に進むには自分の力が全てなので
けっこうキツイ世界ですが、
走ったあとに振り返ってみると
その達成感はなんともいえません。
これは電車や車で移動したのでは
絶対味わえない感覚です。
達成感というものは、
それに費やした時間や労力、
いわゆる”熱量”に
比例するものだと思います。
また、走るときの
つどつどの目標にしたかったので
当時の国鉄の駅に多数立ち寄り、
駅のスタンプを押していきました。
→ 駅のスタンプ
以下、自転車旅行での印象深いことを
北から順に。
■青森県の竜飛(たっぴ)岬
(津軽半島の北端)
太宰治の小説「津軽」で
紹介された竜飛岬。
今別、三厩(みんまや)とすすみ、
海岸沿いの道がだんだん細くなり、
岬の先端のところで
本当に行き止まりとなる。
(1981.7.29)
竜飛岬から三厩方面を
振り返り見る
「ここから先には道がない」。
曇天、霧、一人旅という要素もあり、
このときの鋭敏な感覚は
今でもはっきりと覚えている。
■青森県の八戸駅の
駅構内のベンチで
寝袋にくるまって眠っていた。
(新幹線ができるずいぶん前の
平屋建ての、のどかな時代)
あれっ、なんかお線香みたいな煙が。
駅員さんが近くに
蚊取り線香を置いてくれていた。
えっ、野宿させてもらってるのに。
あのときはありがとうございました。
(1981.7.27)
■岩手県の南端の
花泉町というところで
夏の夜、田んぼ脇の細い農道を
一関に向かって走っていた。
田んぼの方を見ると、
一面に黄色い筋が無数に
ループを描いている。
いうなれば
「田んぼの上空が、まっ黄色状態」。
そのときは、
なんだろう?としか思わなかったが、
(ホタルというものを
見たことがなかった)、
あとになってホタルだとわかった。
(1981.7.25)
■磐梯吾妻スカイラインや、
箱根芦ノ湖の大観山への
登り道を走っているとき、
車の中から「がんばれー」
の声援を受けた。
走ってるほうとしては
けっこう、うれしいものです。
(1983.9.23
磐梯吾妻スカイライン)
■東北本線の須賀川駅(福島県)
(1981.7.23)
東京を出発して東北地方を北上する、
自身として初めての野宿の旅。
(お金ないですから)。
その1日目。
郡山の手前の須賀川駅で
初めて野宿をしようと決め、
駅員さんに、
「一晩、ベンチを使わせてください」
「火は絶対使いませんから」と頼み、
お許しを得てほっとしました。
(慣れない、初めてのことは
誰でも緊張しますよね)。
白河のスーパーで買っといた、
冷えた弁当を食べて
寝袋にくるまったけど、
貨物列車がけっこう頻繁に通り、
そのたびに
「ガタガタガタガタ、ゴゴゴゴー」
のすごい音と振動が長い時間続き、
なかなか寝付けませんでした。
(貨物列車は
一晩で10回以上通るんだよねぇ)
でも、2日目、3日目と
野宿をしていくと、
人間「慣れる」もんで、
相当な騒音にも気にならずに
眠れるようになります。
(このときは、須賀川駅、仙台駅、
一関駅、盛岡駅、八戸駅、と
駅野宿を続け、6日目に
青森駅に到着しました)。
■伊豆の修善寺の近くの
無人の原木(ばらき)駅で
野宿していたとき、
ベロベロに酔っ払った人が
飲み屋から出てきた勢いで
こちらに話しかけてきた。
「よぉ、若いの、どこから来た?
ほぉ、東京か。
おれは38歳だけど、若い頃、
自転車で浜松まで行ったことがある。
社会人になってからは
行きたくても行けなくなった。
社会の中に
オレ自身が組み込まれて
世間がそれを許さない、というかな。
日本一周が夢だったなぁ・・・。
おい、若いの、
自転車での長旅なんぞは
若いときしかできんぞ」
ベロベロなので
ときどき、何を言ってるのか
わからないこともあったが、
とてもいいお話だった。
(1981.9.21)
今でもお元気でしょうか。
■富山県の海岸沿いの氷見から、
夜中、石川県の七尾に向けて
荒山峠という細い山道を越えて
走っていたとき、下り坂で転倒。
(夜中に山道走る方が
悪いんだけどね。だけど、
工事中の穴があいたままで、
柵がなかったんだよねぇ)。
懐中電灯で照らすと、
膝から出血。
うわ、やべぇ。
下り坂なんで、
だましだまし走り・・。
ふもとの町 (石川県鹿島町二宮)に
たどり着き、
道路脇の水道を見つけて
足を洗っていたとき、
その家の方がこちらに気づいて
消毒して包帯を巻いてくれた。
あのときはありがとうございました。
(1981.8.28)
■夜、石川県の南部を
福井県に向けて走行中、
自転車のライトの豆電球が切れた。
町の電気屋さんを見つけて
豆電球を買ったあと、
手元の紙地図をひろげ、
「この、作見(さくみ)という駅は
この近くですか?」
と聞いた。
「あっ、作見ね。
作見駅はここをまっすぐ行くと
すぐだよ」
と、なぜかとてもうれしそうに
教えてくれた。
で、その駅に着くと
「作見」という駅ではなく、
今風の大きな設備の
「加賀温泉駅」になっていた。
そうか。
以前の駅名の「作見」の名を
旅人が呼んでくれたのが
地元の人はうれしかったのだ、と。
(1981.8.30)
(ずっとあとで知ったのだが、
作見駅から加賀温泉駅に
駅名変更したのは1970年。
1981年当時、私は、
かなり古い地図を見て
かなり古い駅名を
告げていたことになる)
■山陰の余部(あまるべ)鉄橋。
(兵庫県北端の日本海沿岸)。
鉄橋脇の高台にある、
無人の余部駅で野宿。
夜、遠くの方から列車の音が
近づいてくる。
鉄橋を渡りだす。
ガタッ ガタッ
ガタッ ガタッ
ゴォー ゴォー
過ぎ去ったあとも
ずっと遠くに行くまで、
響きが山間に、長く細くこだまする。
そして、そのあと、静寂。
(1982.7.28 余部(あまるべ)鉄橋)
■鹿児島県吹上(ふきあげ)町の
パン屋のおじさん。
パンを買ったら
自転車旅行の私を激励してくれて、
「旅のあと、無事に家に帰ったら
ハガキくれ」と
10円玉10枚を手に握らせてくれた。
(その後、旅が終わったときに
ちゃんとハガキを出しました)
その節はありがとうございました。
(1982.3.3)
■「東京発 沖縄行き」のフェリー。
当時、草ぼうぼうの
空き地だらけだった、東京の臨海地区。
(今のお台場あたり)。
その有明埠頭で、
自転車を折りたたんで
フェリーに乗せ、
50時間(まるまる2日)、
どこにも寄港せずに航海して
那覇に到着。
ものすごく長い船旅だった。
2等船室。ゴロゴロしてるか
ときどき甲板で海を見てるしか
ないんだよねぇ。
でも、それはそれで珍しい空間で
おもしろかったです。
ちなみに、スマホはおろか、
デジタル物というものが
全く存在しない、昭和の時代でした。
(1983年2月)
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その後の趣味
1983~95年 【山登り】
八ヶ岳、金峰山、雲取山、
大岳山、塔ヶ岳など、
関東近辺の、中央本線沿線、
秩父、奥多摩、丹沢の山を中心に、
いろいろ登りました。
(参考) 定点からの展望
丹沢、高尾、奥多摩の山なみ
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1992年~現在 【花観察】
「植物は、
その存在自体がアートである」
と思っています。
なんとも不思議な
自然の造形の世界♪
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以上、自己紹介に
おつきあいいただき
ありがとうございました。
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